昭和50年06月17日 朝の御理解



 御理解 第26節
 「信心に連れは要らぬ。一人信心せよ。信心に連れが要れば死ぬるにも連れが要ろうが。皆逃げて居るぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 大変難しい御理解です。何処をどう頂いても本当の御神意を外れとるのじゃないかと思われる位に難しいです。信心に連れは要らぬ一人信心せよと、と云う様な事でも、又は連れが要れば死ぬるにも連れが要ろうが、と云った様な事なんかは、もう愈々説明だけでは解らない、そんな感じがせる御理解です。しかも最後の結びの所に日に日に生きるが信心なりと、日に日に生きるが信心と云う事と、死ぬるにも連れが要ると云う事と。
 信心に連れは要らぬ一人信心せよと云う事がどういう関連生を持って居るか、本当に解らない感じが致します程に難しい御理解です。そこで私くしは思うのですけど、最後の日に日に生きるが信心なりと云う事、そこの所が段々解って来ると、信心に連れが要らんと云う事も、死ぬるにも連れが要ろうがと云う様な、云うならば同志嘆きと申しますかね、同志嘆き的な、例えばあのー無理心中なんかと云いのがありますのはね、あれはやっぱり死ぬにも連れが、人間にはそう云う心理状態があるんですよ。
 仲々行けない行きにくいとこにゃ、あなたも来なさいと云うてそのう、そういう風に誰かを連れて行かねばいけない様な、心の状態が人間の心の中にある。だからそう云った様な事でも、私しは矢張り日に日に生きるが信心と云った様な、まあ是は何んと申しますかね、何んか聞いただけでもその訳きゃ解らんけども、何んか勢いが出る様な感じが致しますね。山口県に赤司と云う先生が居られます。福岡教会の出社です。福岡の教会の出社で大変実意丁寧もうそのままの様な感じの先生です。
 人が助かっております。その方は胸の病気で九大に入院しておられた。そしてもう明日をも知れぬ重態患者があった。同んなじそのう同室に壱岐の、壱岐ではないその向こうの対馬ですね、対馬の教会の総代をして居る方も一緒に入院しておられた。もう随分昔の話なんですよね。赤司と云う先生は非常うにその、若い時から非常に信心が好きであった。だから自分の屋敷には。
 御大師様がお祀りしてあるお観音様がお祀りしてあると云う様に、屋敷中にその仏様をやら色々お祀りする程しの、信心の篤いお方だったらしいです。ですからずうとその自分が、何時果てるやら解らない様な状態にありますから、その南無阿弥陀仏と唱えられるお経を唱えられる訳です。所がそれを聞いて堪らんのが側におられる、その対馬の総代さんなんです。それでのうても滅入ろうごたるある時にですね、はぁなまんだぁなまだぁと、ずうと朝から晩まで、お参りをされるもんだからとうとう堪り兼ねてね。
 私しはぁたのそのなんまんだぶ、聞きょるとこっちの方がまいろうごたる、私しもね信心さして貰うて対馬の教会で、総代さんまでさして貰ってる者んですけれどもね、お道の信心ではね金光教の信心では、それこそ死ぬる用意よりも、生きる用意をしろと仰る程しに、日に日に生きるが信心なりと言う、御教えがありますよと言うて、その話されたそうです。それこそ片一方はもう何時死んでるやら解らんから。
 極楽のお導きもして頂かんとならんと言うので、なまんだぶ、なまんだぶ、朝から晩まで拝んで御座る。それを聞いた金光教の信者のその方はです、まあそれがいやなんですね、もう気分からも良くない時にその信心、日に日に生きるが信心なりと言う事を、話されたたと云う事です。もうそれこそそれを聞いた途たんに、赤司先生がそれこそまぁ元気であるならば、飛び上がらんばかりに驚かれたそうです。
 そう言う信心が有っただろうかと、それからそのう総代さんのお話しを聞かれる事になり、ある晩夜中にふっとめを覚まされると、病室がもぬけの殻になった。何時まで待っても帰って来なさらん。こうりゃ大変な事だ、どうした事じゃろかと思うてその、自分も出て見られて、あのう九大の中に広ういその当時花畑が、色んな花が作ってある花園があったそうですね。
 からもう大変月のこうこうと照る明るい晩だったそうですがね、そのう庭に出て花壇の所をずうと行かれると、花壇の真ん中に誰かがこう人がうずくまってる様に見える。そうじと見られたらその赤司先生だったよね。そこで大地に座って一生懸命天地を拝み御座ったちね。もうそれは毎晩毎晩それが続く様になった、所謂もう死を覚悟しとった人がです、そこに一縷の望みが湧いて来た訳です。
 先生にしては今日只今こうやって生きておる事が、おかげだと死ぬる用意じゃない、ほんに生きて居る事をお礼申し上げなければならない。そして私くしこう云う様な私くしでも、まだ神様の御用が残っておるとするならば、新たな命を頂きたいそして、新たなお役にでも立ちたいという、祈りを込めてのまぁご信心に変って行かれた。それから間もなく福岡の教会に一人病院を抜け出して、お礼参拝をされたと云う事で御座います。
 もうやっぱそんな状態ですから、福岡の教会の玄関まで行った時にゃ、もうあすこでこうへばって御座った、丁度三代の福岡吉木先生のまだ若い時でしょうが、御結界からそこに参って来ておるその赤司さんを、此処へハイハイでも良いから此処へおいでと言うて呼ばれて、して愈々天地のご恩徳を説かれたと云う事です。それからそれこそ薄紙を剥ぐ様に、さしもの病人が助かり出したおかげ様で。そしてそのうお道の教師になられ、人が助かると云う程しのです。
 おかげになられたと言う話しを、一回となし福岡の初代が三代吉木辰二郎先生がおられた時分に、その話を聞かして貰い、又福岡に私しおかげを頂いておる時分に、大祭などにはかならずそのう赤司先生がお参りになられますが、もう誰よりも一っ番早く御神前に出て御祈念をなさる先生。はぁ変った先生だなぁどう言う先生だろうかなぁと思いよったら、はあーあの方が山口の赤司先生げな、と云う様な事を知ったので御座いますが、本当に日に日に生きるが信心なりと云う様な、例えばそのう聞いただけでも元気の出る様なお言葉ですね。そこで私くしは思うんですけれども、
 なら今日信心には連れは要らんとか、死ぬるにも連れが要ろうがと、云う様な心の状態がなくなってしまう程しの、私くしは信心と云うのは、日に日に生きるが信心と云った様なね、信心を身に付けて行かねばいけない。日に日に生きると云う事は、私しは日に日に死ぬると云う事だと思うです。日に日に自分と云う物をもう空しゅうしきって行くと云う事なのです。ですから翌る日の自分の心と云う物は、もう生き生きと新に生まれた命の様に、生き生きとした命の云うならば輝きを感ずる。
 見る事が出来るのです。そこに我情我欲を放れてと云う様なみ教えが生きて来る訳です。ね。我情我欲を放れると云う事は、是はもう死んだ気で自分と云う物を空しゅうしなければ、出来る事ではありません。そこから日に日に新たな信心が生まれて来るのです。日に日に生きると云う事は、日に日に自分と云うものを無くしていく、空しゅうして行く、所謂昨日を忘れてと云う事になる。今日を喜びと云う事になる。明日を楽しむと云うその楽しむ心が生き生きとした物です。
 絶対おかげを信じね、信念される生き方なんです。必ずおかげになると信念される生き方がそこから生まれて来る。ね。昨日は善導寺の原さん所の年に一回の謝恩のお祭りです。本当に年々歳々有難いお祭りになっておいでられる。本当に有難い、もう本当に私しは原さんはもう、本当毎日毎日息子達夫婦を拝んどかにゃんち私は思いました。ほんに家の息子は信心して呉れると良かばってん、家の嫁御は神様に心をもちっと向けると良かばってんと云う人は沢山あります。お道の信心しよる中に。
 それがどうですか、それこそ息子も嫁御もそれこそ先に立って朝参りをもう二十何年続けとりますとですからね。まあ嫁の良子さんは善導寺に縁付いて来られてからですから、どうですかまだ十年足らずでしょうけれどもね、それが本当に親の信心に付いて来ると云うもうそれだけでも、例えばお母さんの原さんな、それだけでも拝うどかんですバイ、ほんなごと。もうとてもとても。
 本当もう誰も真似の出来んごたるおかげ頂いちゃるです。さぁしてならそれこそ朝の御祈念を何十年間続け、二十五年間ですかね朝の御祈念続けておられる。そういう信心の余徳と云う物が息子にああして生き生き、嫁御にまでああして伝わって行くんだと思うんです。私はお祭りを奉仕し終ってお話をした事でしたけれども、折角そう云う様に勢を揃えて信心させて頂いてあるから、一つ勢を揃えて祈りの方向と云う物を、一つにしなさいと私くしが申しました。
 嫁御は嫁御での願いがあろう、息子は息子としての願いがあろう、ばばさんなばばさんとしてのまた願いがあろう。そりゃああっても良いけれども、此処だけは同んなじ祈りにと云う事。勢を揃えて信心せよと云われてもですね、向こう向いて信心しよるとも居りゃ、こっち向いて信心しよるとじゃ、一つも勢を揃えて信心しょる事にならん。そこで此処だけは一つあのー勢を揃えた生き方。先ず第一にです、今日も愈々成行きを大事に尊ばして下さいと言う祈りを持ちなさい。
 第二には今合楽で言われるどうぞ今日も何時でも何処ででも出来ると云われる心の行、愈々本気で心行に取り組ませて下さい。人間最高の知恵と云われるね、馬鹿と阿呆今日もどうぞ馬鹿と阿呆で信心を、生活をさせて下さい馬鹿と阿呆に成らして頂く稽古をさして下さいと言う。この三つの祈り三つの願い是だけは親子三人の者が同んなじだ外にいろんな様々な物は、願いはそれぞれに違いましょうけれども。
 この三つだけは信心の真になる物ですから、この願いだけはしっかりしなさい、この祈りだけはしっかりしなさい。そしてその祈っておる願っておる事に日々取り組んで行きなさい。そしたらどんなに素晴らしい輝かしい事になって来るか解らんよと云うてお話した事でした。私くしは日に日に生きるが信心なりと、云う事はそう云う事だと思うです。今日もどうぞ本気で心行さして下さいと。
 今日もどうぞ本気で馬鹿と阿呆にならして下さい。愈々本気で起きて来る全ての事柄をです、銘々自分自身の前に頂けれる自然の働きその物をです、合掌して受けれる様な心の状態を、頂かして下さいと祈り願って、その事に本気で取り組んで行くと云う信心。それは自分と云うものを空しゅうする稽古の最高の稽古だと思うです。そういう信心が日に日に生きるが信心なんです。
 段々と我情も取れて来るでしょう。我欲も尚更取れて来るでしょう。そこに我身は神徳の中に行かされてある喜びがもう愈々生き生きとして来るでしょう。その生き生きとしたその心でです、日々信心生活をさして頂くと云う事がです、日に日に生きるが信心なり、そういう信心を身に付けて行く限りですね、それこそ成程信心には連れは要らんと云う意味も言葉、所謂言葉では説明が出来ない程しに難しい事であっても、それが何時の間にか身に付いて来ると思うのです。 
 昨日私くしは母と十六日ぶりに対面を致しました。今日神様からお許し頂いたからあの行くからと家内に申しましたら、それなら一寸待って下さい。婆ちゃんの一番気分の折角じゃから、気分の良か時が良いからと云うのでお掃除やらしたり、先生があのう今日はお許し頂いて見えるげなけぇ、と言うて母を待たせてそしてもう三時頃でしたでしょうか、あのう此処に座っとりましたら呼びに来ました。
 それこそ躍る心をじっと抑えてね、したら丁度あのう嘉朗さんがお礼参拝して来ました。秋永嘉朗さん、もうそれこそ大変なおかげを頂いてお礼参拝でした。そのお礼参拝に出てきた時に、お婆ちゃんに差し上げて下さいと云うて、もうあのうお婆ちゃんがトコロテンが大変好きであるとか、あのうプリンが好きであるとか、もうそれこそ冷たいもう大きな紙袋二つにして持って来ました。
 十六日振りに対面するんですけぇ、何か手土産の一ちょでも持っていかにゃ、神様はほんとに一分一厘の間違いの無い働きを何時もの事ながら、もう恐れ入ってしまいます。もうそれだけで私の心は有難いで一杯になっとります。母が私くし丁度一時間母がやすんどります横に、私し長うならせて頂いてものは出来ませんから只もう私くしの手をさすったり足をさすったりしてから、まあ喜んでする事を喜びを表現しておるのだと思わせて貰いました。嘉朗さんがあのうトコロテンを持って来たから。
 あのう頂こうと云うて私くしが美味しそうに頂くもんですから、なら私しもチイとばかり頂いて見ろうかと云うてから、トコロテンを一すすり二すすり頂きました。その母が矢張り皆んなお祈り添えをしっかりして頂きよるから、もう一遍起き上がれる様にゃねと云うて妹が申しましたそうですが、いえもう自分の事は自分が一番分かると云うたそうです。先日からも家内と妹とそれから、娘の直子が何時もあそこで御用しとりますから、三人に色々と遺言をさせて頂いた中にね、
 あのう私しの事は心配は要らんと云うたそうです。どうですか今日の御理解じゃないけれども、死ぬにも連れが要ろうてんなんてん、そんな淋しさはなんかは全然感じないです。昨日そこの村内の田中さんと中村さんですか、見舞いに行って下さってからもう、お婆ちゃんの本当に何と云うですか、あくが抜けたと云うか綺麗になって綺麗になっとられますと云うて聞きまして。昨日は行きましてね、本当にもっとやつれておるだろうと思うとりましたら、そう云う様な物も感じん位におかげを頂いておりました。
 第一痛い痒いが全然ないのですからね。もうまぁ本当にあのうもし、あのままお国替え頂くならあれが本当の安楽死と云うのじゃなかろうかと、思われる位な状態の中におかげ頂いとります。そして今申します様に、死ぬるにも連れが要ろうがと云う様なものではなくて、何時の間にかですね、例えば死んで行くのに、私しの事は心配要らんとね、生きても死んでも天と地とは我住処と思えと仰る、その事を信じ切っている。
 又あちらへ行くでも一人行く事はいらん、御爺ちゃんが迎えに来てやると言うてあるからそれを信じておる。そういう心の状態を開かせて頂くと云う事です。それには矢張り信心に連れは要らぬ、一人信心せよと云った様な信心が、訳が分かるか分からんか知らんけれども、そういう信心が身に付いて居った。云うならば、日に日に生きるが信心なりと云われる様な、信心を何十年間続けて来て居る。人間最後のギリギリの時に立ってそういう安らかな心の状態が開けて来るんだと私しは思うんです。
 どうぞこの二十六節を私は今日は、日に日に生きるが信心なり、此処の所の信心が出来れば、大変に難しい、解らない所も何とはなしに体得さして貰う、解らせて頂けれるおかげを受けられる・・・・・・此処でテープ切れ。 御理解だと思います。 
   どうぞ。